ある放火事件の被疑者供述の信用性鑑定 -心理の流れの混乱- (Statement assessment, Forensic interview関連記事)
ある放火事件とは
自らが作業員として働く建造中マンンションに放火した疑いで、西条隆男氏(仮名)が逮捕された。逮捕直後の取調べで自白するものの、母親との接見直後の取調べで否認に転じた。しかし再度犯行を認め、捜査は終了した。公判で再度の否認に転じ、その後一審、二審を通じて否認を貫いた。
鑑定依頼
最高裁に上告の際、弁護団より西条氏の供述の信用性に関する鑑定依頼を受けた。
鑑定の内容
西条氏は最初に否認に転じた際、事件当日のアリバイを供述していた。この日彼は通常の作業に従事しており、この日の業務の一部始終が語られていた。これを浜田寿美男の「心理の流れ」という観点で見ると、行為とそれに付随する認知や感情が非常に整合的であった。その一方、それ以外の自白供述は整合性が低く、行為と認知、感情がちぐはぐであった。そこで「心理の流れ」に着目した鑑定を実行することにした。公判廷での供述は否認のみが主張されているので分析資料として利用できなかった。
なおこの鑑定は、2006年の第7回法と心理学会大会(法政大学)で発表されている。以下にそれを転載することとする。
ある放火事件の被疑者供述の信用性評価
西条隆男氏(仮名)は、自らが作業員として働く建造中マンションに放火した疑いで逮捕された。同マンションではX月26日、X+1月10日、11日とボヤ騒動が起こっていた。この出来事の被疑者として、西条氏は逮捕された。
取り調べ後わずか1時間半ほどで自白した西条氏であるが、母親と接見した日の取調べで犯行を否認する供述を行なった。しかし翌日再び犯行を認め、取調べが終了した。彼はX月26日、X+1月11日の放火の被告者として起訴され、公判廷では一貫して犯行を否定し続けたが、一審、二審と有罪判決が下された。最高裁に上告の際、筆者は弁護団より西条氏の供述の信用性に関する鑑定依頼を受けた。本発表は、その鑑定に基づくものである
[分析対象]
公判供述は否認のみなので利用せず、X月26日、X+1月11日の出来事に言及のある捜査時の供述調書が分析対象となった。ここでは、X+1月11日の出来事に関する供述の分析のみを発表する。この日の出来事については、犯行を肯定する供述(4/15員面、4/20員面、4/21員面、4/22員面、4/27員面、4/30検面)と、犯行を否認しアリバイ(建築作業)を語る供述(4/25員面)が存在する。4/20から27の員面は一続きの流れを日を分けて語っているので、分析は4/15員面、4/20から27の員面、4/30検面で語られた自白三つと4/25員面で語られたアリバイ一つを比較対照する形で行なわれる。
[信用性に関する検察側主張および一審判決文の要旨]
まず西条氏は、取り調べ開始後すぐに自白している。
X+1月11に、非常に回りくどい放火の仕方(801に放火⇒802に放火⇒1階休憩室⇒502に放火)を行なっているが、かえってそこにリアリティがあると、検察は主張している。なぜなら、想像でこんな回りくどい説明はしないだろうからだという。回りくどい放火をした理由も自然かつ合理的であると述べる。火のつけ方、燃え方の描写、そのときの感想など、犯行の重要な部分についても、十分な説明がなされている。こういう説明が可能なのは、経験した事実を語っているからだと、供述の信用性は高いと評価した。
西条氏の自白内容には数々の変遷が見られる。しかし検察は、これには合理的理由が付されているという。捜査時に自白⇒否認⇒自白と変転しているが、これには彼自身説明に合理性が認められるという。すなわち、自白したものの接見で母親と話したことにより、自分はすべてを失ってしまうと思ったので、嘘をついて犯行を否認した。しかし嘘の重圧に耐えられなくなり、再度自白に至ったのだと。
犯行供述が信用性を有すること、内容の変遷や自白と否認の変転の説明も合理的であるという検察の主張を一審は支持した(「捜査段階における自白には高度の信用性がある。これに反する公判廷での供述は信用できない。」)。
一審判決を不服とした西条氏は控訴に踏み切るが、二審は控訴棄却の判決を下した。
[分析結果]
自白調書で西条氏はマンションの各階を頻繁に移動しているが、最初の放火以降の移動順序と各階での行動は、8階(放火)、1階(用便、4/15員面にはない)、7階(同僚への声かけ)、1階(作業終了)、6階(差し金探し)、5階(放火)のようにほぼ一貫している。否認(アリバイ)調書でも、放火が含まれないこと、5階への移動がない(別の時に行っている)こと以外は、順序、内容ともにほぼ同様である。浜田寿美男が言うように、嘘が事実を下敷きに構成されるのならば、ここで一つの仮説を立てることができるのではなかろうか。すなわち、自白、アリバイは一方が他方を下敷きにしている、と。以下、この仮説を検討したい。
自白とアリバイ、両供述で語られた、各階で行なわれた行為を比較すると、それらがほぼ同じであることに気づく。唯一異なるのは、各階への移動に際しての理由や動機、心情である。アリバイ供述である4/25員面におけるそれらは、極めて自然であった。夕方5時過ぎに同僚に作業終了の声かけに行き(→7階)、片付けをしてゴミ捨てに向かい(→1階)、なくした工具(差し金)が6階にあったと聞き駆け付け(→6階)たのである。一方自白では、早く帰りたい気持ちがあった(→7階、4/20~27員面)、火をつけたので早く帰りたい気持ちがあったが、怪しまれないように向かった(→6階、4/15員面)、すでに1階に降りていることもあり少し安心していたのと、そんなに早く燃えて行かないだろうという気持ちがあったので向かった(→6階、4/20~27員面)のように、先行する放火と後続する行動の整合性を保つかのように弁明調となったり、心情に沿った行動のように語られていないなど、説明が乱れている。
さらに、先行する放火と整合しない奇妙な行動が出現している。まず挙げられるのは、「差し金を6階で見つけたと同僚に聞き、ラッキーと思い6階に行った」(4/20~27員面)である。先の弁明(すでに1階に下りていたこともあり・・・)と併せれば、かろうじて整合性はあると強弁できるかも知れない。
しかし次の事例はどうだろうか。それは6階から移動する際に語られた。「6階廊下にニスの薄め液の缶を発見し」(4/20~27員面、4/30検面)、「ニスは1階にあるから別々だとわからなくなると思い、1階の材料置き場に戻そうと持った」(4/20~27員面)、「1階のニスと一緒にしておこうと手に持った」(4/30検面)である。犯行の流れの中に、突如日常的な作業行為が出現している。この部分で、犯行の説明は完全に破れている。
先の仮説について判断しよう。どちらがどちらの下敷きであるのか。アリバイ供述は説明として極めて整合性が高い。一方、自白供述は整合性がところどころで破綻している。そして自白供述から、犯行行為(放火)とそれにまつわる心情をそっくり取り除くと、アリバイ供述とほぼ一致する。自白供述はアリバイ供述を下敷きにしたと判断する方が自然であると思われる。
[討論]
外的基準を参照せず、供述内在的に信用性を評価するスキーマアプローチ(大橋・森・高木・松島, 2002 「心理学者、裁判と出会う」北大路書房)では、実体験のマーカーを被疑者・被告人から得られることが必須である。しかし今回の放火事件では、西条氏の生まの声を採取することはできなかった。そこで、浜田の「心理の流れ」分析に依拠した分析が行なわれた。
この観点は、分析者の解釈を持ち込んでしまい、事実を判断する客観性に欠けるとの指摘がなされるかも知れない。しかし本分析を、調書の「品質」の分析だとみなすことで、この批判は回避されるだろう。整合性のある説明とない説明があったとき、どちらが信用するにふさわしいのか。
しかしながら、被疑者の回答をどのように調書記載するかは犯罪の構成要件が特定できればよいのであり、「心理の流れ」が記されていなかったからといって、それは特段調書に録取されるべき事項ではないとの反論も可能だろう。確かに「心理の流れ」の記録が問題になるのは心理学的観点からであって、それが記されていないことが法的不備(違法)になるわけではない。したがって、「心理の流れ」の有無から行なわれる鑑定は、取調室のコミュニケーションがブラックボックスである限り、効力は小さいであろう。
説明の整合性、「心理の流れ」の保持といった調書の「品質」が、信用性を評価する鍵となり得ることを本鑑定は問題提起する。調書の記載方法が改善され、このような視点からの信用性評価が可能となることを期待したい。