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浜田寿美男の供述分析
ここでは、浜田寿美男先生が独力で考案された、供述の信用性を評価する技法について述べます。
浜田先生は、元々発達心理学を専攻されていたました。ウェルナーとカプランの古典的名著「シンボルの形成」を、鯨岡峻先生とともに翻訳されました。当時まだ大学院生だったと思います。より最近では、ワロンの心理学をめぐる論考によって、情動や身体の重要性を指摘しています。しかしここ30年近くでは、浜田先生と言えば自白や証言の研究がすぐに連想されます。「自白の研究」(北大路書房)という大著がありますし、「自白の心理学」(岩波書店)、「取調室の心理学」(平凡社)、「<うそ>を見抜く心理学」(日本放送出版協会)などの一般向けの本も出版されています。また、数々の刑事事件で鑑定書を書かれたり、特別弁護人として法廷に立ったりしています。甲山事件を皮切りに、狭山事件、野田事件、袴田事件、帝銀事件など、先生がかかわった事件は数知れません。
浜田先生が甲山事件への協力を要請されたのは、この事件の争点の一つが子供の目撃証言であったことでした。子供なら発達心理学という理由で呼ばれたそうで、当時特段裁判というものに関心があったわけでなく、ましてや供述の信用性を分析する技法をお持ちだったわけでもありません。しかしこの事件以来、先生は裁判の仕事に打ち込まれます。その理由は多分、裁判で問題となるのが個別の人間であること、しかも特定文脈(しばしば極限的な)に置かれた具体的人間を対象とすること、体験や生とはどのようなものであるかを否応なく追及せざるを得ないこと、などにあったのではないかと思います。平均値によって描き出されるような、抽象的な人間を扱いがちな心理学への抵抗であり、また具体的人間を研究することの魅力もあったのだと推測します。浜田先生は近年「渦中の心理学」とか「渦中性」といったことを強調されていますが、これは先生が元々持っていた発想であり、かつ裁判の格闘する中で次第に明確になってきた、生きている人間の特性でもあります。
話を分析技法に転じましょう。浜田先生の供述分析を、我々は東京自白研究会時代、袴田事件に関する先生の鑑定書や「自白の研究」などによって学びました。浜田流供述分析と命名し、いくつかの鑑定で使わせてもらいました。浜田流の基本姿勢は、供述を時系列に沿って追い、変遷を発見し、その理由を推測するというものです。「嘘分析」「無知の暴露分析」「誘導可能性分析」「逆向的構成分析」「心理の流れ分析」といった技法に分けられます。これらの名称は先生自身が使用しているものでは必ずしもなく、先生の鑑定書や著書を元に我々が(あるいは私が)整理しています。具体的な例を交えて、一つずつ説明していきます。なお「嘘分析」「無知の暴露分析」「誘導可能性分析」については分析の実際が、浜田先生の著書「自白が無実を証明する」(北大路書房)に詳しく載っています。
嘘分析
ある事項に供述者が繰り返し言及するとき、複数の供述間にずれが生じることがあります。このずれが勘違いや、うっかりした記憶違いに帰属できるかをまず考えます。もしできないとすれば、この変遷には嘘が含まれていると考えます。嘘とは真実を隠すためのものですから、先に語られたことが後に語られたことを隠すための嘘ということになります。嘘分析は、事項の変遷を嘘に帰属できるかを分析するものです。分析の結果変遷が勘違いでも、うっかりした記憶違いでも、そして嘘でもないとすれば、それは何を意味するか。事項に関する体験がないと結論付けます。
東京自白研究会時代、我々は「一美さん殴打事件」(一般に「ロス疑惑事件」と呼ばれるものの一環)の加害者供述の信用性鑑定を行なったことがあります。加害者のYさんは、被告人三浦和義氏から、保険金目当てに妻・一美さんの殺害を依頼されたと主張します。Yさんの供述の信用性が被告人の有罪推定にかかわるのですが、弁護人はYさんの供述の鑑定を我々に依頼してきました。弁護人曰く、Yさんは別の事情で事件先に来ていたのであり、「殴打」という出来事も単なる喧嘩なのだと。Yさんの供述はにわかに信じがたいところがあると踏んでのことでした。
Yさんの供述には、真の体験者(すなわち犯人)であると思えない箇所がいくつかありました。その一つが、殺害依頼受諾の動機でした。動機は2回に渡って変化し、取調べでは3種類の動機が語られていました。最初に語られたのは、「脅されて止むを得ず」という動機です。依頼を断われば自身の身が危険になるような脅しを被告人から受け、仕方なく殺害を受諾したのだそうです。ついでこの動機は、「金銭目的」に移行します。殺害に成功したら保険金の一部を報酬としてもらえると聞き、依頼を受諾したというものです。主体的な関与が表明されていますから、先の動機に比べ明らかに悪質です。よって先の「脅されて止むを得ず」は、「金銭目的」を隠蔽しようとする嘘として妥当です。しかし動機はもう一度変化します。最後に出てきた動機は「被告人への愛情」です。実はうまくいっていない結婚生活を破棄し、Yさんとともにやり直したい旨が伝えられ、その情にほだされて依頼を受諾したのだそうです。取調べはこれで終わってますから、この最後の動機が「本当のこと」と認定されたことになります。では前二者は、これを隠蔽する嘘として機能しているでしょうか。最後の動機は、Yさんと被告人はいわば同等です。互いの情に訴えた結果の受諾だからです。このような相互の関係を抽出してみると、第一の動機は「Yさんが受動的(劣勢)」、第二の動機は「Yさんに主体性がある」、そして第三の動機は「対等」です。「対等」を隠蔽するために「主体性」を使用することはあり得ないのではないか。よって、この変遷は嘘が暴かれて真実が明らかになっていく過程ではなく、体験に依拠しない作話ではないか。これが我々の結論でした。
この分析は判決文で吟味されています。その詳細は「判例タイムズ」の859号(1994年)・82-117ページに委ねますが、簡潔に言うと、裁判官は第二の動機は第三の動機を隠蔽する嘘として機能するとの解釈を表明しました。嘘分析の弱点は、最終的に依拠するところが「嘘の妥当性」であり、また「人間の合理性」です。妥当性は、他の事項との関連でしばしば評価されますが、そこにはどうしても出来事の意味の解釈が混じります。この解釈が、評価者によって一致するとは限りません。全く任意ということではありませんが、一意に定まるかと言われれば心もとないとのは確かです。また人間は常に合理的に行動するとも限りません。思いつきや気の迷いなとで不合理な行動をとることがあります。浜田先生は、現実の具体的人間を見ようとしましたが、現実的とは言い難い「常に合理的に振る舞う人間」を密かに導入してしまったのではないか。嘘分析は「不合理性」をどこまで排除できるかということ、解釈の多義性がいかに抑制できるのかに成否がかかっている技法だと思われます。
無知の暴露分析
供述に従って捜査を進めたところ、供述を裏付ける証拠が発見されることがあります。これは「秘密の暴露」と呼ばれ、供述の信用性を保証する特性の一つです。これに対比する形で名付けられた「無知の暴露」とは、犯人であれば当然知っており、特段嘘をついてまで隠蔽する必要がないことに、供述者が一貫して無知であることを言い、供述が体験に基づいていないことの証左とみなされます。
袴田事件の被疑者・被告人供述鑑定では、被疑者が奪った売上金が入っていた袋の二重構造に全く言及していないことを「無知の暴露」とみなしていました。売上金は小さな袋に小分けされ、それがさらに大きな甚吉袋に入れられていたにもかかわらず、被告人がこの構造を認識した形跡は供述にありませんでした。
逆に、体験があったとしても知っているはずもないことに言及している場合、これも無知の暴露ということができると思います。浜田先生は痴漢冤罪の被害者供述に注目し、この例を示しています。臀部の感覚は非常に鈍いため、どちらの手でどのように触れられたのかを感じ取ることは難しく、本当の被害者ならばこのようなことは憶えていないため、「わからない」と回答することがむしろ体験者らしいとのことです。もし、詳細な被害供述をしているとしたら、むしろそれが体験について無知な証拠、つまり体験の不在を示すと言えましょう。
この分析技法については、人間はどのようなことまで認識し、憶えているはずなのかが明確でないと、適用は難しいでしょう。「普通はこうだ」「いや、そうではない」という水掛け論になってしまいます。心理学は本来このようなことを探求すべきなのですが、まだなされていないようです。最近、司法面接法など、体験を適切に聞き取る方法への関心が高まってきましたが、何をどこまで尋ねるべきなのか、方針は明確でないような気がしています。この点への貢献のためにも、先のような心理学研究が望まれます。
誘導可能性分析
供述の源泉が当人の記憶ではなく、取調官の誘導による可能性を指摘する技法が誘導可能性分析です。最近は取調の可視化、すなわち録音録画が拡大してきましたが、それ以前、取調官と供述者の間でどのようなコミュニケーションが起き、供述調書が作成されたのかは闇の中でした。浜田先生の技法は、このような時代に考案されたものがほとんどです。コミュニケーションの実態を調べることができれば、誘導があったかどうか判断することは容易でしょう。それでは調書などの文書化された捜査資料しか参照できない状況で、誘導の痕跡はどのようにして発見され得るのか。
基本は供述の変遷です。ある事項について、それまで安定しなかった供述がある日の調書を境に安定することがあります。また、全く登場しなかった事項が語られ始めることもあります。ここで調書以外の捜査資料を参照して、それら事項に関連する証拠が採取された日付を特定します。この日付が変遷を見せた時点と重なる時、どのようなことが推測されるでしょう。犯行を隠し続けてきた被疑者が、動かぬ証拠を突きつけられて自白した。そう考えることはできます。曖昧な記憶が明確になった。これもあり得るでしょう。しかし変遷と証拠採取の日時が複数符合している場合、真実の自白や記憶の明瞭化だけで説明することはかえって不自然です。
そこで取調官の誘導を疑います。すなわち、真実の究明に執心する正義感の強い取調官が、証拠に基づいた質問によって被疑者の頑なな心を開こうとする。一方、体験がないにもかかわらず、被疑者はその気迫に押され、証拠に適合する作話を行なったのだと。
体験がない供述者は、事件について何も知りません。取調官にも犯行体験はありませんが、証拠を採取した限りでその事件について知っています。正確には、事件の内容を証拠に基づいて構成することができます。この二者の間には、事件について「知らない者 vs. 知っている者」という関係があります。後者が前者を「知っている者」(つまり犯人)とみなして、あるいは強い確信を持って取り調べる時、後者の知っていること(証拠などの捜査情報)が前者に仄めかされることは考えられます。
本来両者は「知らない者 vs. 知らない者」という関係を維持すべきなのですが、強い正義感や信念によって「知らない者 vs. 知っている者」関係に立ってしまうことがあります。最近注目されている司法面接や認知面接では「知らない者 vs. 知らない者」関係の維持が心がけられます。証拠によって相手の供述の真偽を確かめようとはしますが(「チャレンジする」と言います)、あくまで論理的に質問はなされます。「この時あなたを目撃したと言っている人がいます」とか、「発見された凶器にあなたの指紋がついています」という形で持ち出し、それについての弁明を聞き取ろうとします。
逆向的構成分析
浜田先生のユニークな点の一つは、我々の体験に関わる基本概念を徹底して考察するところにあります。「時間」もその一つです。時間とは逆行しません。未来に進むのみです。したがって、起きたことの記憶はあっても、これから起きること対しては推測するしかありません。反復される日常的な出来事であれば、次に何が起きるかを確信を持って待つことはできます。しかし犯罪のような特別で、一回的な出来事についてはどうでしょうか。次に何が起きるのか確信は持てないと思います。目撃者であれば、次に犯人が何をするのか不安で仕方ないでしょう。犯罪者であれば、予期できない他人の動きを心配し続けるでしょう。時間の中にある我々の体験は、元来このような未来に対する不確定性に直面しています。安定した、ルーチン的な日常を送り続ける私たちは、このことを忘れがちです。
このような時間の、そして体験の不確定性が前面に出る犯行の実行体験、被害体験や目撃体験においては、これから何が起こるか予期は難しく、我々の予想は裏切られ続け、次々に到来する出来事の実現に身を委ねることになります。このような体験がある場合、その記憶にもまた同様の性質がもたらされるはずであると、浜田先生は考えます。ところが、体験の所有が疑わしい事件の被疑者・被告人、目撃証人、被害証人に、奇妙な供述が現れることがあります。これから起きることが本来予期できる類のものではないのに、予期あるいは確信しているとしか見えない言動をとったとの供述です。
甲山事件は、少年の目撃証言の信用性が一つの争点となりましたが、目撃少年の供述にこの種の言動が現れていました。甲山事件は、甲山学園という知的障害児童収容施設で、教師が児童を殺害したと言われた事件です。教師は園児寮から児童を連れ出し、寮の裏手にある浄化槽に突き落とし殺害したとの嫌疑がかけられました。この場面を目撃したと、目撃少年は供述しました。その調書にはこうあります。「先生がS君が手をつないで廊下をあるいて行くのが見えた。そこで僕は怖くなって、近くのトイレに隠れて、二人の背中を見続けていた。」先生と児童が寮内を歩いているのは日常風景です。なぜこの場面を怖がるのでしょうか。供述では続けて、先生がS君を無理やり廊下の先にある非常口から外へ連れ出す場面が語られます。体験の上では、廊下を歩く二人に何が起きるか、前もってわかりません。しかし目撃少年は、連れ出しが予想できているかのような恐怖を感じているのです。連れ出し後の目撃供述も不自然です。二人の姿が消えた後、少年は廊下の窓から寮の裏手を見ようとしたが、暗くて何も見えなかったと供述します。なぜ、寮の裏手を調べるのでしょうか。S君は裏手の浄化槽で発見されます。このことが前もって分かっているかのごとき供述です。
このような預言者的行動が供述される時、それは体験準拠ではなく、結果が分かっている二次情報によって構成された作話である可能性を疑います。これが逆行的構成分析です。未来から現在を眺めるかのごとき、時間の流れを逆行して構成されている可能性を指摘するので、こう呼ばれます。
浜田先生の時間論、体験論は確かにうなづけます。しかし記憶は常に、そのような体験の性質を留めるのでしょうか。松本サリン事件で最初実行犯であることを疑われた河野義行さんは、その著書「『疑惑』は晴れようとも」(文藝春秋)で、このような経験を語っています。庭で飼っている愛犬の様子がおかしいことに河野さんは気づきます。愛犬が口から泡を吹いているのを見た河野さんは、屋内にいる奥様にこう語ったと言います。「これは警察を呼んだ方がよいのではないか」と。これを聞いた検察官は、河野さんにこう尋ねたと言います。「愛犬の異変が、どうして警察に関係する出来事だとわかったのか。犯人でなければ、そんなことはわからないはずではないか」と。河野さんが無実であったことは、本当の実行犯が逮捕されることで明らかになりました。このエピソードは、逆行的構成分析に疑問を突きつけます。真の記憶があったとしても、逆行的構成は生じる。したがって、逆行的構成の存在は、供述が真の体験でないことを担保しないのではないか。
この問題は認めざるを得ないと思いますが、逆行的構成分析がまったく無力であると結論づけるのも拙速に過ぎるでしょう。真の体験がある場合、どういう条件下で逆行的構成が生じがちかを確認しようとする研究が始まっています。また私の研究から示唆されるところでは、逆行的構成は同じ体験を何度も話していると生じやすくなるようです。
心理の流れ分析
この技法もまた、我々の体験のあり方の分析から生まれてきた手法です。未来の不確定性は先に示した通りですが、一方我々はそれに対して、予期を生みだしながら対抗します。多分こうなるだろう、こうなる可能性がある等、ありうる未来に対して身構え、行動します。例えば、犯罪を実行しつつある人間であれば、誰かに目撃される可能性を予期しながら、それを排除する行動をとるでしょう。あるいは、その可能性を恐れながら行動するかも知れません。実行後も同様でしょう。不自然な言動を他人に見られないように、誰とも会わないような経路を選択するとか、誰かと会った場合にとるべき自然な言動を準備するとか、将来生じるかもしれない事態に身構えます。
体験はこのように、未来への予期を携えています。日常的な事態でも同様なのですが、予期がほぼ実現されるようなルーチン的生活で、このことが自覚されることは少ないと思います。通勤途中に車にはねられる心配をし、事故に対して身構える行動をとる人は少ないと思います。しかし非日常的な犯罪の実行や、その被害、目撃では、このことは体験の最中で強く自覚され、記憶にも残りやすいと思われます。供述がこのような体験の有り様を反映しているか否かを探る技法は、心理の流れ分析と言います。予期を携えて未来に向かい続ける中で生じる心理の流れを、供述の中に発見しようとするわけです。
ある放火事件の被疑者供述の信用性を鑑定したことがあります。自らが建造に関わるマンションのある階に放火した後、マンション玄関から被疑者は出てきたと言います。そこである工員に出会い、無くしたと思っていた工具が発見されたこととその場所を伝えられます。ここで被疑者は「ラッキーと思い、もう一度マンションに入り、その工具を取りに行った」のだそうです。工具がある階は、放火した階のすぐ下でした。被疑者の心情(ラッキーと思う)も行動(放火場所近くに行く)も、放火犯としての心理の流れを反映しているとは思えません。この供述には取調官も疑念を抱いたようで、後の調書でその部分への説明が供述者自身によって加えられています。しかしこの説明も、納得できる説明にはなっていませんでした。
取調べの最終段階近くで検察官によって作成された調書には、被疑者の移動と各地点で行なった行動だけが記されており、行動を動機づけた心理は記されていませんでした。このような記載は珍しくないようですが、心理の流れ分析が適用しづらい資料です。捜査資料に対して心理学的な分析が加えられるような形で記録されることは、その信頼性を高めることにもつながります。もっとも警察官も検察官も、信用性鑑定における心理の流れの重要性を知らないのだと思います。法曹関係者に心理学的な知見を提供すること、心理学の成果を取り入れることを法曹関係者に促すことは、心理学者の使命だろうと思います。もっとも、実用に耐える良質な成果を生産する責任もあると思いますが。相手のしていることを否定したり、危険視するだけで、肯定したり、代案を出すとかしないのであれば、相手には聞き入れてもらえないと思います。野次るだけのファンはファンでしかなく、フィールドで活躍する選手にはなれないのです。