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足利事件被疑者・被告人自白の信用性鑑定 「その人らしさ」を表現する想起の文体

 

足利事件とは

 足利事件は1990年に発生した殺人事件です。このときまでに北関東一帯では、連続幼女誘拐殺人事件が発生していましたが、足利事件もこの一環として捉えられました。本件は、DNA鑑定が最初に捜査へと投入され、被疑者逮捕につながった事件として、また同鑑定によって無罪が証明された事件として有名です。本件の詳細については、小林篤「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」(草思社, のちに「足利事件 冤罪を証明したこの一冊の本」として文庫化され、講談社より発刊)、菅家利和「冤罪 ある日、私は犯人にされた」(朝日新聞出版)などを参照してください。

 本件の起訴と有罪判決に対しては、DNA鑑定と並んで、被疑者の自白が大きな鍵となっていましたが、これら二つの捜査情報には、ともに大きな疑念が持たれていました。DNA鑑定については前掲書に委ね、本稿では自白の信用性をめぐる議論を行なっていきたいと思います。なお本稿の内容はすでに、大橋・森・高木・松島「心理学者、裁判と出会う」(北大路書房)として公刊してありますので、そちらもご参照ください。

 

自白の信用性鑑定へ

 本件被疑者・被告人の菅家利和氏(彼は前掲書のような形で、本件の被疑者・被告人であることを公言されているので、本稿では本名で記載します)は、逮捕直後に自白し、一審第6回公判まで維持していましたが、突然第6回公判の途中で否認に転じます。情状酌量の線で弁護を進めていた当時の弁護士の助言があったようで、第7回公判では再び犯行を認めます。論告求刑後から再度無実を訴え、全面否認に転じますが、結審した一審では無期懲役の判決が下ります。直ちに控訴した菅家氏には新たな弁護団がつき、無罪を訴える二審が開始されます。主要な争点はDNA鑑定と自白の信用性でした。我々東京自白研究会は、この後者の心理学鑑定を弁護団から依頼されました。

 最初我々は、浜田寿美男氏の供述分析を適用しようとしましたが、弁護団の意向で途絶、急遽新たな方法を模索することになりました。弁護人が弁論で利用する方法と浜田流供述分析が類似していると弁護団が判断し、心理学者のプロフェッションの色がより濃厚な方法でないと、裁判所に対して説得的でないとみなされたためだと記憶しています。また、浜田流がしばしば分析対象として選ぶ捜査時の調書(員面・検面)ではなく、公判速記録を分析対象とするように要請されました。捜査官の解釈、編集を経た「作文」より、生のコミュニケーションが展開されている公判速記録の方が、菅家氏の「生まの声」を見つけ出せるはずだ、との見込みが弁護団にはあったようです。菅家氏が自白を維持している一審第6回公判までの速記録を検討する日々が訪れました。我々は手探りはそこから2年近く続いたと思います。月に数回会合を開き、公判速記録を読み上げてみたり、各々分析視点を持ちあって議論したりしました。

 

語りの文体への注目

 ある日、メンバーの高木氏と松島氏が、菅家氏の公判供述に特徴的な偏りがあることを指摘しました。まず、供述の量。そして、文体。これらの指標は、犯行供述と真体験供述を鮮やかに二分していました。ここで、真体験供述について説明しておきます。菅家氏は偶然にも、犯行以外の出来事、すなわち彼の日常について語る機会を得ていました。基本的に公判での質問では、事件に関わることしか尋ねられないのですが、事件に関連する情報として、逮捕前の菅家氏の日常経験が尋ねられたのです。例えば、警官による家宅捜索、甥の運動会、勤務先での同僚との会話などです。これらがなぜ真体験と言い得るかというと、家宅捜索には当然その発令をする公文書があります。他人と交流した出来事であれば、それらの人々から裏をとることができます。なお、我々が注目したのは真体験の内容ではありません。そんなものは確かめようがない。そうではなく、「警官による家宅捜索」のような名称をつけられる出来事に、菅家氏が出会っていたという点が肝要なのです。そしてそれが、供述の文体に反映されていたのです。

 話を戻します。高木氏と松島氏が指摘したことの第一、供述の量は、真体験の方が圧倒的に多い。犯行を語る菅家氏の口は重く、しばしば声は途切れ、検察官、裁判官、弁護人が文を補うほどでした。また、後三者らがCQ(closed question, 「はい」か「いいえ」で回答できる問い)を発し、「はい」と回答することが多く見られました。犯人が自らの罪を認めるような供述に慎重、あるいは躊躇するのは当然であり、その結果としての低発話量だとみなす人もいるでしょう。しかし一方の文体についてはどうか。

 菅家氏が真体験を語るとき、非常に特徴的な文体が語りに現れていました。「心理学者、裁判を語る」から、典型例を引用しましょう。家宅捜査時を思い出して語る菅家氏です。引用中菅家氏には「須賀氏」という仮名が与えられています。

 

ええとですね、その巡査の人が「須賀さんですか。」と言いましたので、「はい、そうです」と言いました。そうしましたら、「中をちょっと見せてもらえないかな」と言われました。それで、家の中を、何というんですか、上がってもらって、それで押し入れを、「そこちょっと開けてもらえないかな」と言われたものですから、押入れを開けまして、それで、何というんですか、小さい箱がありました。(以下、略)

 

ここには巡査と菅家氏の行なったこと、「行為」が記されています。それぞれの行為を誰が行なったかに注目してください。「須賀さんですか」と言ったのは巡査ですね。次に「はい、そうです」と言ったのは、菅家氏ですね。次の行為、「中をちょっと見せてもらえないかな」という発言の主は? 巡査ですね。家に上がったのは巡査、押入れを開けてと言ったのは巡査、開けたのは菅家氏、というように行為の主(動作主)を特定していくと、菅家氏自身と彼が接触した相手の行為が、交代して語られる傾向が強いことに気づかないでしょうか。相手は人だけではありません。最後の部分で、菅家氏が押入れを開けたら「箱」が「あった」というように、菅家氏の行為の反作用は人と物両方、いうなれば「環境」なのです。この環境が、菅家氏の行為と共によく見えるのが、真体験の語りです。繰り返しますが、語りの内容の正確さはわかりません。しかしこのとき語っている菅家氏の身体挙動である語りの質は明確です。この文体は「動作主交代」(元々は「行為連鎖的語り」と言っていましたが、私はよりストレートにこう呼んでいます)と名付けることができると思います。そして、菅家氏が真の体験を語るときのマーカーとして、使用することができると思います。

 犯行供述がもし真体験だとしたら、同様の文体が現れると期待されます。もし菅家氏が犯人であれば、犯行の対象である被害者の行為への言及が頻繁に見られるはずです。本件は誘拐事件であり殺人事件、しかも性的行為を伴った犯罪です。被害者のリアクションは当然あるはずです。真体験と同様の分析を施したところ、犯行供述における動作主は菅家氏が圧倒的に多く、被害者の行為はわずかでした。ここで反論があるかも知れません。菅家氏は被害者の行為をあえて語っていない、隠しているのだと。しかし彼がそうする理由はなんでしょうか。菅家氏はたどたどしい物言いながら、一審第6回までの公判で犯行を認めています。検察官や裁判官に、犯人であることを尋ねられれば肯定します。そんな彼が、被害者の反応だけ除外して語る必要は何でしょうか。

 菅家氏は語らないのではなく、むしろ語れないのだと考えたほうが合理的だと思います。つまり、彼には犯行体験がない。我々はこのように結論し、鑑定書(正確には、弁論要旨に添付された研究報告書)を作成しました。しかし二審判決での評価ははかばかしくなく、菅家氏は敗訴。上告も棄却され、菅家氏は服役の身となりました。その後、DNA再鑑定、再審無罪となるまでおよそ17年が費やされました。我々が行なった自白の信用性鑑定は再審で注目されることはありませんでしたが、DNA再鑑定による完全無罪によって、その結論が妥当であったことが示されと思っています。

 

心理学的意義

 我々の鑑定は、実践的にも学問的にも、ある程度の意義をもたらしたと思っています。第一に、我々が行なった文体分析は、接近不可能な原事象との対照を必要としない方法であること。第二に、供述外部の基準に訴えることのない、供述内部の基準に基づく方法であること。第三に、特定の個人を問うことのできる基準であること。

 第一の意義、原事象との対照を必要としない点について、まず述べましょう。過去の出来事は記録されない限り、参照することはできません。監視カメラ等で犯行が記録されていることは現実には多くなく、自白や目撃証言が体験に基づいているか否かの吟味が進められることになります。このような作業の一つが、供述の信用性鑑定です。記録が残っていなければ、供述内容の正しさを確かめることはできません。心理学における記憶実験は、実験者が所有している「正解」と、被験者の想起内容を対照できることを前提としています。想起の起源について、実験者が知っているという前提とも言い換えられます。この前提に立つ限り、記憶に関する知見は「もし体験があった(あるいはない)場合、こういう条件によって、想起はこのようになる」という形にしかなりません。しかし裁判で要求されるのは、供述からその起源を問うことです。すなわち「この想起は、体験に基づいているのか」という問題設定です。記憶実験の成果が、これに答えられないのは明白です。現実は起源が問われるのに、研究では起源に関する知識があることを前提としてしまっているからです。これに対して文体分析は、争点になっている出来事の内容との対照を必要としません。ただマーカーとなる文体を特定するために、存在が明確であることが担保できる真体験に言及する語りを必要とします。あとはマーカーと、争点となっている出来事に関する供述の文体を比較すればよろしいです。

 第二の意義、供述外部の基準に訴えることが不要であるとは、どういうことでしょうか。外部基準とは、評価対象がその基準を構成する要素ではない基準です。具体的に言えば、供述内容に対する過去の出来事の内容は、想起内容とは別物ですから外部基準です。それ以外にも、供述者の心理特性、たとえば性格、知能、心理的あるいは身体的な障害、境遇、生い立ちなどは外部基準です。また従来から(いや現在も)利用されている供述内容の「具体性」「詳細さ」「迫真性」「臨場感」「一貫性」なども外部基準です。文体による鑑定は、これらの外部基準を必要とせず、ただ供述がどのような文体を有しているかだけを手かがりに信用性評価が可能です。文体というその供述が有するそれ自体の特性、すなわち供述内部の基準、内部基準に基づくのみです。

 外部基準の欠点一つは、それがしばしば例外を持つことにあります。ある性格の人、知能があまりすぐれない人、ある境遇にある人は、必ずあることをする(あるいはしない)でしょうか。かなりの確率(高頻度)でということはあるでしょうが、100%ということはない。具体的で詳細な供述は、常に真体験を保証するでしょうか。二次情報とある程度の文才があれば、そのような供述は可能だと思います。よって、人の属性や行動がある特性を有することは、体験の有無に直結させられない。心理学的法則もそうです。有名な「凶器注目効果」がありますね。犯人が凶器を持っていた場合、目撃者の注意が凶器に取られ犯人の顔への注意が低くなる。それが顔の記憶の悪さにつながるというものです。しかしこの法則は、犯人の凶器所持が常に顔の判別を困難にするとは主張しません。なぜならこの効果が実証された実験で、凶器所持条件でも正しく犯人の顔を識別できた被験者はいたからです。犯人が凶器を所持していて、犯人を目撃した証人の証言がこの法則によって吟味される時、その目撃証言の信用性は確率的判定にとどまります。一方、内部基準による判断は、評価対象がある供述特性を有しているか否かで、過去体験に起源があるかどうかが判定されます。 

 第三の意義は、内部基準による評価が、特定の個人を問うことができるという点にあります。外部基準は確率的です。すなわち、特定の供述者の供述が「信用できる」か「信用できないか」は、確率的重みによってしか主張できないということです。たとえば前者が80%、後者が20%のとき、これは個別事例についての確率ではなく、複数事例がどの程度の割合でそれぞれに該当するかを表示しています。類似の100事例があったとすれば、前者に80事例、後者に20事例が該当するという意味です。今その供述の信用性が問われている被疑者・被告人がいます。この特定個人は、80%に所属するのでしょうか、20%に所属するのでしょうか。犯人が凶器を所持していても、正しく顔の記憶を有していた人もいれば、不確かだった人もいます。目の前の個人は、いったいどちらに所属するのでしょうか。決定することはできません。心理学が、条件間の平均値(代表値)の有意性検定によって法則を生産している限り、この問題は不可避です。

 米国などは、心理学者のできることはここまでと割り切って、あとは裁判官や陪審員が総合的に判断すればよいとされています。目撃証言や虚偽記憶研究の第一人者であるエリザベス・ロフタスは、外部基準の問題に気づいていたようです。心理学の知見に基づいて証言したところ、信用性が問われていた証言は心理学法則通りではなかった。ロフタスは自らの専門家証言の意義に苦悩します。同僚は、心理学にできることはここまでだと慰めてくれるのですが、彼女の腑には落ちません。詳細はロフタスとケッチャムによる「目撃証言」(岩波書店)をご覧ください。

 心理学者が外部基準しか提供してこなかったことは、心理学研究の方法ゆえに仕方ないことなのか。ロフタスの同僚ならそういうでしょう。ロフタスを慰めるための方便かも知れませんが、そうだとしても外部基準に変わる方法を提示することはないでしょう。しかしこれは心理学の敗北であると、我々なら考えます。かつて日常記憶の研究が盛んでしたが、裁判という現実場面に耐える知見を、心理学は提供できなかった。日本の裁判では、個別事例について語ることが要請されます。最近は米国風になっているかも知れませんが、少なくとも足利事件が争われていた当時は、一般的な人ではなく「菅家氏」という特定個人に対して、心理学者として何を言い得るかが問われました。この時外部基準は無力です。また、解釈学もどきの心理学風鑑定を行なうことも許されない。足利事件の弁護団はそうでした。弁護人と同じようなことはするな、心理学者としての専門性を発揮せよと、厳しく伝えられました。その結果が、内部基準の発見であった訳で、今となってはこの厳しさに感謝しています。我々だけの成果でなく、心理学という学問領域としての成果でもあります。外部基準の限界を超えて、個別事例を問うことができる方法を手にしたのですから。

 大きく迂回してしまいました。内部基準の意義に戻ります。内部基準は、供述が問われている特定個人の発話に定位し、そこから抽出されます。砕けた言葉で言えば、その当人がある状況下で繰り返し行なっていることを発見し、これを基準として問題となっている供述を照射します。菅家氏が真体験を語る場合、彼の発話には「動作主交代」が顕著に現れます。一方、犯行行為を語る場合その特徴は影を潜め、むしろ菅家氏の行為だけが語られる「動作主連続」が顕著になっていました。これらは、一般の人についての法則ではなく、特定条件下での菅家氏に適用できる基準です。当然人が変われば、内部基準の具体的姿は変わります。実際、我々がこの後に手がける「甲山事件」や「尼崎スナック狙撃事件」で抽出された内部基準は菅家氏のものと違いました。また、実験的なコントロール状況で行なわれた研究からも、内部基準の具体的姿は人によって異なることが示唆されています。この研究については、別ページ(Remembering & Communication)に掲載されていますので、ご参照ください。内部基準を特定個人の特定状況下での行動や発話、コミュニケーションから見出し、特定個人について確かなことを判断しようとする方法を、我々はスキーマアプローチと呼んでいます。スキーマとは、フレデリック・バートレットの用語ですが、なぜこれが借用されているかは「心理学者、裁判と出会う」や、別ページ(Remembering & Communication)の記事を参照してください。我々は想起や供述の分野に適用していますが、スキーマアプローチはおよそ特定個人を問う限り、有効な接近法だと思います。個人が問われる臨床心理学でも応用可能だと思っています。