甲山事件目撃証言の信用性鑑定 -繰り返されるコミュニケーションパタン-(Statement assessment, Forensic interview関連記事)
甲山事件とは
甲山事件は1974年3月に、知的障害児収容施設甲山学園で起こった「殺人」事件です。なぜカギカッコがついているかというと、これが本当に事件なのかが判然としないからです。被告人の弁護団は、園児が遊んでいるときに起こった事故ではないかと推測しています。浜田先生の著書「証言台の子どもたち」(日本評論社)にも同様の記載があります。二人の園児が、学園寮裏手の浄化槽から遺体で発見されます。このうちの一人を殺害したとの容疑で、学園保母の山田(当時は旧姓・澤崎)悦子さんが逮捕されますが、神戸地検は証拠不十分を理由に不起訴処分としました。山田さんは現在も、この事件にかかわる冤罪被害者であることを公言されている(指宿ら(編)「シリーズ刑事司法を考える 第0巻 刑事司法への問い」にも寄稿されています。山田悦子「被告人席に座らされて」)ため、ここでも本名表示させていただきます。
しかし児童の遺族の申し立てを受け、神戸検察審査会は1976年10月、不起訴不相当の議決を行ない、神戸地検は捜査を再開します。二人の園児の死去から3年後、元園児の正岡利博君(仮名)の供述を皮切りに、数名の元園児たちから新たな供出が飛び出します。「澤崎先生が聡君(亡くなった園児の一人・仮名)を園児寮から連れ出すのを見た」との正岡証言がきっかけとなり、78年2月山田さんは再逮捕されます。このあと一審、二審、差し戻し一審、第二次控訴審と続き、山田さんが無罪となるまでに21年が費やされることになります。
なお正岡君は「事件」直後、警察官による取調べを受けていますが、このときは全く山田さんの関与を語ることはありませんでした。その3年後、一転して関与を語りだしたのですから、正岡君の目撃証言の信用性評価の鍵は、証言自体の信用性と3年間沈黙し続けた理由となります。後者についてはここでざっと触れるにとどめますが、正岡君曰く、もし目撃を語ったら、聡君と同じように自分も山田さんに連れて行かれると思い、怖くて話せなかったのだそうです。しかし甲山学園では、その3年間に山田さんに甘える正岡君の姿が散見され、また仲睦まじさを物語る写真も存在します。恐怖の対象である人物と、このような関わりができるものでしょうか。
正岡君の証言を我々は信用できないものと判断しますが、正岡君がなぜ虚偽の証言をしたのかについても、彼の名誉のためにも付言しておく必要があると思います。彼は元来とてもおしゃべりであり、かつ作話癖がありました。このことは、学園の日誌でも度々触れられていたことでした。彼は、自分の話を聞いてくれる人の期待に応え、つい話してしまう。また作話と体験の語りを自覚的に区別して話さない特性がありました。想像したことと現実にあったことが混同されてしまうのですね。このことも、園児日誌で触れられるとおりです。よって彼は、山田さんに対して悪意を持って虚偽証言をしたのではなく、話を聞きたがる取調官や尋問者の期待に応え、想像と想起を混同して、結果として虚偽証言をしてしまったと言うべきでしょう。
本稿の内容はすでに、大橋・森・高木・松島「心理学者、裁判と出会う」(北大路書房)として公刊してありますので、そちらもご参照ください。また、我々が関与したのは差し戻し一審からですが、原一審で正岡証言の信用性を鑑定したのは、浜田寿美男先生です。原一審は、浜田先生の鑑定を評価し、無罪判決を下しました。このあたりの経緯と鑑定の内容は、先生の著書「証言台の子どもたち」(日本評論社)を参照してください。
差し戻し一審
原一審での無罪判決に対して、神戸地検は控訴を決定します。そして迎えた控訴審(二審)は、一審差し戻しの判決を下します。理由の一つは「知的障害者としての証言者(正岡君)の知能特性の吟味が十分でない」とのことでした。
正岡君は当時10歳で、知的水準は5歳程度との検査結果があります。原一審の検察側証人であったある心理学者は、正岡君の知能水準から彼の証言の信用性について次のような結論を導きます。「このレベルの知能水準では作話は難しいものの、実際に知覚した出来事であれば想起は可能である。正岡君は、取調べ(そして検察官の主尋問)において詳細な供述をしているが、このような供述は作話ではなくむしろ体験した出来事に依拠している」と。つまり彼の供述は信用できるというのです。これに対して浜田先生は、知能水準で一般的な判断をするのではなく、証言者を個別の、具体的な人間としてとらえ、彼の実際の供述を吟味すべきであると考えました。そして、正岡君の目撃供述と他の園児たちの供述の不自然な同調を指摘し、彼の供述は体験ではなく取調官とのコミュニケーションに依拠している胸を主張しました。つまり、彼の供述は信用できないと判断したのです。
甲山学園の日誌には、正岡君が「嘘つき」の常習犯であることが記載されています。学園では「嘘つきマー君」などと呼ばれるぐらい、彼の作話は常態化していました。もっともその「嘘」も悪質なものではなく、父親と遊びに行った等の親の愛情を求める、あるいは子供らしい虚栄心に満ちたものに過ぎませんけれど。ともかく知能テストから導かれた一般像に、正岡君は合致していなかったのです。
知能水準といってもそれは一般的な指標にすぎず、実際特定人物が何をしているかは、その人物の具体的な行動を参照する必要があります。この点、先の心理学者には、いや心理学自体におごりがあったのかも知れません。心理学の知見を知っていれば、具体的な人間を見ずとも、その人間を理解し得るのだという。浜田先生はこの態度には懐疑的であり、批判的でした。一貫して、生きている具体的な人間の追求をし続けた(ている)方です。
しかし大阪高裁は、具体的な人間を見て判断すべきという浜田先生の態度を十分理解できなかったのか、差し戻し判決を下したのです。
目撃証言の信用性鑑定へ
山田さんの弁護団は、浜田先生に代わる鑑定者を探していました。浜田先生の鑑定は一審での無罪判決を得たが、二審はそれを好意的にとらなかった。したがって、浜田先生以外の誰かに鑑定を依頼し、差し戻し審に向かうべきだと。当時浜田先生に触発され、東京自白研究会が実働し始めたばかりでした。浜田先生の紹介で、何人かの弁護士が同会を訪ねてきました。依頼の中身は当然差し戻し一審で活用できる鑑定の依頼。そして、コミュニケーションの分析をしてくれと言われました。コミュニケーションの分析とは、正岡君と尋問者の原一審公判でのコミュニケーションのことです。その理由は聞き漏らしたか、忘れてしまったのですが、今推察すればこういうことかと思います。まず第一に、浜田先生は捜査段階の供述調書を分析する鑑定を行なった。同じ資料を分析しても新しいことは出て来にくい、との判断が弁護団にあったのでしょう。第二に、尋問者として弁護人が正岡君とやりとりした時のコミュニケーションに注目してほしいため。弁護団は、正岡君に対する反対尋問のとき、ある発問の仕方を意図的にし続けたようです。これを分析することで、正岡君が証言者として信用できないことが示されるという確信があった。
コミュニケーションの分析を多少なりとも手がけていたという理由からか、私と大橋靖史氏が甲山事件の担当ということになりました。浜田先生の方法以外に供述の信用性を吟味する方法を知らなかった我々にとって、公判のコミュニケーションを分析してくれと言われても、何をすればよいかすぐにわかるはずもありません。東京自白研究会は同時期に足利事件を抱えていました。文体に注目する分析が発見されるまで、こちらの作業が難渋していたのはこのHPに別稿(Statement assessment, Forensic interviewから「足利事件」をご覧ください。)として記しました。ここに加え、コミュニケーション分析という新たな難題を抱えたのでした。
数か月苦しんだと思いますが、弁護団から指定された締め切りの4か月ほど前になって、方針が決まりました。足利事件と同様ですが、まず正岡君の生まの姿を明らかにしようとしました。それには、取調官の要約や解釈を受けた供述調書より、公判速記録の方が適しています。第二に、反対尋問を分析すべきと考えました。正岡君は検察側の証人ですから、主尋問である検察官とのコミュニケーションは即興的なものではありません。事前の打ち合わせがあった可能性があります。その点弁護人からなされる反対尋問では、正岡君は素のままの姿で対応するしかありません。鑑定書ではコミュニケーション分析に加えて、もう一つ、正岡君が3年間目撃体験について沈黙していたという理由付けが妥当かの吟味をしましたが、これは学園の記録や写真など公判速記録とは異なる資料を用いましたので、ここでは紹介しません。
公判のコミュニケーション分析
以下の分析は概略です。詳細な分析については、大橋ら「心理学者、裁判と出会う」(北大路書房)をご覧ください。
まず我々は、原一審の主尋問と反対尋問を比較してみました。まず主尋問について。正岡君と検察官のやり取りは非常に淀みなく進んでいました。検察官によるほぼすべての質問に対して、正岡君は明快な回答を与えています。そしてその内容は、被告人である山田さんが園児を学園寮から外へ連れ出すという、山田さんの嫌疑を深めるものでした。一方、反対尋問における正岡君は苦戦しています。しばしば沈黙や不合理な回答が見られました。この点を原一審論告で、検察官はこのように非難します。「ステップを踏んだ質問を行えば正確な供述を得れるが、弁護団のように包括的、抽象的な発問をすれば知的障害ゆえ混乱をきたしてしまう。さらにその混乱を追求するような質問をすれば、さらに混乱の度が高まってしまう。」よって主尋問はその発問方法の適切さゆえに信用できるが、反対尋問は正岡君が混乱した状況でなされたものゆえ信用に足るものではない、と評価します。
司法面接や認知面接などが周知されたきた現在では、この検察官の主張はもっともらしく聞こえるかもしれません。確かに、障害を持った証人への発問方法には配慮が必要です。しかし発問方法は適切だったとしても、証言が体験に基づいているかどうかは、発問者が「自分は事件について何も知らない」「事件について語り得るのは証言者だけである」との態度を堅持した限りにおいてです。このことは司法面接でも、認知面接でも強調されています。しかしこのときの検察官と正岡君の関係はどうだったでしょうか。正岡君は反対尋問で、弁護人の質問に対して「検察官との事前の練習があった」と述べています。正岡君が答えられずにいると、どのように答えるべきかを教えてれたるのだそうです。そしてその通りに回答する練習をしたのだそうです。これでは供述の出どころを、正岡君の体験記憶であると言うことはできないでしょう。よって我々は、反対尋問によって、正岡君が目撃体験者であるかを判定する必要に迫られました。
まず反対尋問の質を吟味してみました。論告によると、反対尋問で正岡君は全く混乱していまっているとのことでした。しかし、丹念に発問に対する回答可能性を計量していったところ、彼が全く回答できない部分は反対尋問の2割程度でした。さらにその約半数は、矛盾する供述のいずれが正しいのかを問うような質問でした。主尋問になかった特殊な質問を除けば、反対尋問での彼の回答可能率は85%を超えていました。主尋問のほぼ100%に比べれば劣る数値ですが、目撃体験の内容そのものにかかわる回答の比率としては決して低くないと判断し、反対尋問が分析に値する資料であると結論しました。
続いて反対尋問に対して、コミュニケーション分析を加えます。この分析は簡単に言うと、どのような発問をすると正岡君の回答がどうなってしまうかを示そうとしたものです。分析結果の概略を述べます。第一に、正岡君の回答に対して異論を挟む発問を行なうと、彼は容易に回答を変更してしまうことがある。第二に、Closed Questionで発問すると、しばしば「はい」と回答するが、それが別箇所での回答と矛盾することがある。これだけなのですが、この結果は重要でした。なぜなら、この二つの様式が組み合わさり、繰り返されると、尋問者の意図した方向に正岡君の供述を誘導できるからです。事実、反対尋問において、正岡君は目撃体験自体を否定するかのような回答を行なっています。目撃体験をしたと主尋問で主張した地点に到達する前に、彼は学園寮の自室に戻ったというのですから。
先に指摘したように、正岡君は検察官と事前の「練習」をしたと言っています。その時の様子の一端を、彼は「詰まったら言い直してもらう」とか「違うと言われたら言い直して答える」のように表現しています。反対尋問で弁護人らが展開したコミュニケーションと似ていないでしょうか。実は弁護人たちは「練習」のこと、およびその内実を掴んでおり、そのような発問をすればどうなるかを法廷で示す目的で、反対尋問を行なったようなのです。そして今回のコミュニケーション分析は、そのような正岡君の供述特性を明瞭にあぶり出したのです。
現在では、このような発問は誘導の可能性が大であるとして、司法面接でも認知面接でも極力避けるように提言されています。このところ、特に検察官の適切な発問方法への志向が高く、甲山事件の反対尋問が不適切な事例として指摘されることもあります。しかしその前に行なわれている、検察官による「練習」がまさに不適切な事例であることは知っておいてほしいと思います。
正岡君は園児の遺体が発見された直後に取り調べを受けています。このとき、山田さんの疑わしい行動は一切供述されていませんでした。彼が3年後に目撃証言を語り出して、山田さんの再逮捕となったわけですが、このときの取調べにあたった警察官とのやりとりが、反対尋問での発問構成や主尋問の「練習」と酷似していたことを、差し戻し一審の判決文は指摘しています。結局、見込みを持った聞き手が、質問の反復やClosed Question、回答訂正を示唆する発話によって、正岡君の供述を誘導し、「目撃供述」が形成されたということが言えます。
今回のコミュニケーション分析は信用性に関する結論だけでなく、発問方法の重要性をも示唆しています。捜査段階での取調べは可視化を含む捜査の高度化の進展によって、発問の影響力が認識され、その方法に改善が現れてきています。法廷での尋問はどうでしょうか。主尋問に備えて「練習」を行なうことは、体験記憶の適切な聴取がなされる上で、許容されることでしょうか。また反対尋問で、Closed Questionを含む誘導性の高い発問を行なうことは適切でしょうか。どちらも適法ではありますが、心理学的には望ましくありません。心理学と法曹界との、より緊密な相互作用が期待される一事例だと思います。