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「賢い身体」の復権から「魂」へ

於 日本心理学会第78回大会 ワークショップ

  「『賢い身体』の復権から『魂』の心理学を立ち上げる (2014年9月12日)

1. 賢さはどこからくるのか?

 

 人間は賢い。他の動物に比べて。動物が賢くない訳ではないが、人間の賢さは顕著であるから、その理由を探したくなる。 

 Descartesは身体と精神を分裂させて、後者が賢さの源泉であると考え、これが現在も心理学に広く流布している。身体は動物でも持っているのだから、身体は賢さの源ではないと考えられたのだろう。

2. 精神と身体の分離

 精神は賢く、身体は愚かである。精神は身体ではないが、身体によって賢さは顕在化する。となると、精神と身体をつながないといけなくなる(心身二元論と心身問題の発生)。心理学は、その創設以来、この問題を抱え込んでいる。知ること(知覚)とすること(行為)の分離という問題でもある。

 最近では脳(身体ではあるが、特権的な部分)、あるいは認知機構が、精神の役割を担うとされている。身体は物理的刺激の入口でしかなく、これに意味を吹き込む(知覚を成立させる=知ることを可能にする)のは、そして命令を下し、身体に実行(行為=することを可能にする)させるのは、精神の役目。

3. 精神の忌避 --Watsonの行動主義--

 John Watsonは、心身二元論に対する抵抗として「内的なもの」(脳も含む)を拒絶し、「身体のみ」の心理学者となった。

「賢さ」をWatsonはどう扱おうとしたのか。「愚かな身体」で全部いけると思ったのか。また「知ること」はどこに? 刺激に対してどう反応するかが強化によってコントロールされているから、彼が知覚という活動を認めていたとしても、それは反応を引き起こす刺激の受容でしかない。

Watson以降の「賢さ」を求める心理学史は二つの方向に。一つは二元論の方向。そして、もう一つに身体の復権を見ることができるかもしれない。前者は、脳や認知機構を志向する立場(神経心理学、認知心理学)。後者は、Burrhus Skinnerや Edward Tolmanの新行動主義。なおWatson以降(新行動主義、認知心理学)のキイワードは、「機能」(対象に対して働きかける。対象は環境だったり、表象だったりするが)だと思う。生物の「機能特定性」の認識。前者は機能を精神に、後者は身体に帰属した。後者は前者の前身のように認知心理学史では語られることが多いが、別系統である。

4. 身体の復権? --新行動主義--

 TolmanやSkinnerは「精神」に言及せず、「賢い身体」を提示しようとしたのかも知れない。

 Skinnerのオペラント行動の概念は、一見生態心理学における環境探査行為(exploratory action)を想起させる。

オペラント行動とは (O’Donohue& Ferguson, 2001, p.87)

 ・環境に基づいてoperateするからオペラント行動

 ・常に環境に変化を生じさせる

 ・自発する

 ・形態ではなく、機能によってカテゴライズされる

これはリードの言うperformative action に相当する。Gibsonian の観点からすると、自分の知覚と行為を変化させる exploratory action  はオペラント行動に含まれていない。残念。

なおSkinnerは、知覚も機能によって特定されると述べている。

 

行動だけでなく、刺激も機能によって特定される。どのような筋肉が動いていても、「笑顔」は「笑顔」刺激である。  (O’Donohue& Ferguson, 2001, p.77)

 

これは知覚における不変項を思わせる。

 しかしSkinnerによる知覚への言及は、ほとんどないように思われる。「賢い身体」の一側面である「知覚する身体」が、彼の心理学には不在だということ。「知ること」の扱いが希薄とも言える。また、知覚と行為が分離している。彼にとって、弁別刺激の知覚とオペラント行動は、結果による連合でしかない。この点、Watsonと同様である。どちらも連合だからね。

 James Gibsonの生態心理学から逆算すると、知覚と行為は表裏ゆえ、相対的に独立であるが分離はしていない。連合と考えたSkinnerは、知覚と行為を絶対的な独立としてしまった。知覚と行為の結びつきは強化随伴性によって任意である。

 Skinnerのradical behaviourismでは、「見ること」も行動であると言われる(佐藤, 1976)。強化と罰の対象であり(環境刺激と任意に結びつく)、環境探査行為ではない。「知ること」は環境を知るというより、強化スケジュール(強化者)を知ることである。

 しかし、強化されていない状況(オペラント水準)におけるオペラント行動は、何によって選択されているのか。全くランダムなのか。いや、環境の何かによって可能になっているのではないか。そうすると、環境側に行為を可能にする何かを認めなければならなくなるし、可能にするものを知る働きを想定しなければならなくなる。生態心理学的に言えば、前者はアフォーダンスであり、後者は知覚である。

Tolmanは「認知地図」(一般的には、サインゲシュタルト)の概念によって「知ること」に言及した。また「潜在学習」の発見によって、強化を受けない状況での学習成立を実証した。無強化状況下で、動物は環境探査をしていることを認めざるを得ないのではないか。 

ギブソニアンによって、「アフォーダンス」という用語で後に示されることを、トールマンは先取りしていた。ジェームズ・ギブソンと同様、トールマンもまたわかっていた。ある行為を惹起する、ある種の傾向を対象が有していることを。彼はそれに、マニピュランダ、ディスクリミナンダという名を付けた。 (Gleitman, 1991, p.236)

 

行動は真空中では発生しえない。行動は補足的な「サポート」または「維持」を必要とする。生活体は、刺激の結果として、これこれの「行動サポート(behavior-support)」が環境内にあるであろうと期待する。ネズミの走路走行は、足を支える現実の床、その間を通る現実の壁、とび込んでゆく現実の前方の自由な空間などがなければ、実行不可能である。・・・・

 ・・・この・刺激だけでなくサポートがあらゆる行為の現実の生起にとって必要でありまたその行為によって期待されるということは、刺激-反応心理学者および精神主義必[ママ]理学者の両方の正統派心理学者が従来見落としてきた1つの行動特徴である、ということができよう。   (トールマン(富田訳), 1977, p.94)

・・・「サポート」には少なくとも2つの下位群があることを指摘する必要がある。これら2つの下位群は、一方における「感覚的サポート(sensory support)」と他方における「運動的サポート(motor support)」とに大まかに区別されよう。

 ・・・期待されかまえられていると立証されるサポート特徴が、これこれの感覚作用(弁別)の一貫した可能性である場合、われわれはそのようなサポートをディスクリミナンダと呼ぶ。他方、その期待されるサポート特徴が、これこれの様式の運動活動(操作)の可能性である場合、それをマニピュランダと名づける。

(トールマン(富田訳), 1977, pp.94-95)

 

なおTolmanは、Koffkaらのゲシュタルト心理学つながりで、Gibsonと関連あり。

5. 賢い身体の復活

 知覚し行為する「賢い身体」は、James Gibsonによって(再)導入された。

「17世紀の科学革命は心と身体を二つに切り裂き、現代物理学を生み、心理学に心身二元論という形而上学的な負荷を負わせた・・・。」

 

「デカルト以来、心は頭蓋骨の中の未知の領域に押しやられてきた。脳についてわかってくると、心は暗く狭い領域に押し込められ、あちこちに退散し、非物理的な存在に逃げ込んだ。そしてやっと、生態心理学によって心は居場所を見つけた。心は、脳の複雑な物理学的関係の傍らではなく、アフォーダンスに満ちた環境を経験し、そこでふさわしい行為をする能力をもつ心的存在としての私たちにあったのである。」  (リード(佐々木監訳), 2006, p. 395)

6. ちょっと気になるJean Piaget

 Piagetによると、ヒトは行為を媒介にして環境と相互作用し、環境(世界)のあり方を弁証法的に構築していく。環境との相互作用に基づいた構築なので、全面的に主観的ということではない。一方、世界が単純に写し取られる訳でもないから、全面的に客観主義ということでもない。漸次的に世界を適切に認識できるようになっていくのである。

 彼のキイワードの一つは間違いなく「行為」である。当然これは身体によって遂行されるもの。いずれ内的な操作へと置き換わっていくが、操作も原初的には行為である。

客体の認識は、外部の情報の単なる記録によって獲得されるのではなく、主体と客体との相互作用に由来するものであるから、客体を認識するためには、2つのタイプの活動が必然的に要請される。1つは行為(action)そのものの協応であり、もう1つは客体間相互の関係づけである。ところで、客体間相互の関係づけは行為を通してのみ可能となるのであるから、これら2つのタイプの組織化活動は相互に依存しあっている。とすると、客体の認識は結局、常に行為の諸構造に従属していることになる。・・・しかし、こうした行為の諸構造は行為に依存しているがゆえに、客体の中に与えられているわけではない。また、主体は自分の行為を協応する仕方を学ばなければならなすがゆえに、行為の構造は主体の中に与えられているわけでもない・・・。これらの構造は、まさに構築されなければならないのである。

 

                      (ピアジェ(中垣訳), 2007, p.12)

シェム(schemeとその複数形schemes)という用語は、操作性の(operational)活動を指し示すために使うのに対し、図式(schema、とその複数形schemata)は、思考の形象性の側面、つまり現実を変換しようとするのではなく、それを表示しようとする試み(心像、知覚、および記憶)を指し示す用語として使う。

                 (ピアジェ(中垣訳), 2007, p.16)

・・・物理的には異なる諸々の行為の心理的等価性を特徴づける共通の構造をさして「行為のシェム」・・・と呼ぶのである。行為のシェムは表象的知能における概念に相当する。より正確に言えば、思考の水準における概念に相当するものが感覚運動的知能の水準にもあるはずだと考え、それをピアジェはシェムとよんでいるのである(思考を内化された行為と捉えれば、概念もまた行為のシェムであり、概念的シェムとよぶことができる)。われわれは概念を用いて思考し、世界を理解しようとするのと同時に、シェムを用いて行為し、周りの環境に適応しようとするとピアジェは捉えるのである。

                  (ピアジェ(中垣訳), 2007, p.19)

「坐ることを拒否する椅子」(川崎市市民ミュージアム)を例にして考えてみる。

 

岡本太郎らしいユニークな名前の作品です。腰掛ける面には大きな目や口があり、それぞれが個性的な生き物たちです。おしりの感触はごつごつとして、ゆったりとくつろぐことができません。太郎は、合理主義や機能主義を乗り越え、生活感や想像力を打ち出す椅子、精神的にも肉体的にも人間と対等の顔をする椅子をつくったといっています。太郎は生活の中に創造的な笑いを求めたのです。

 「座れるぞ」(シェマによる同化) 

→ 座ってみた 

「痛い!」「座るものではない」(シェムの調整)

     + 「これは椅子ではない」(シェマの調整)

→「『坐ることを拒絶する椅子』は座るものではない」

              (シェムによる同化)

「特定のシェムで同化できる」=「アフォードする」か? 内側(シェム)と外側(アフォーダンス)の違い? 構造が対象から発見できるものであれば、内的なものを想定する必要はないのではないか。単に「知覚が発達した」と言えばよいのではないか。

 Piagetが描くヒトの知的発達は、高次の不変項を環境に発見していくプロセスと見ることはできないだろうか。もしそれが可能であれば、Piagetは高次不変項の発見に関する詳細な記述をしてくれていることになる。生態心理学による読み替えを行なうことが必要。逆にPiagetの主張(発生的認識論)に対して、生態心理学は自らの立場をdefendできるのか。

引用文献

 

Gleitman, H. 1991 Edward Chace Tolman: A life of scientific and social purpose.  In     Kimble, G. A., Wertheimer, M., & White, C. L.(Eds.) Portraits of pioneers in     psychology. Hills Dale: NJ, Lawrence Erlbaum, pp.227-241.

O’Donohue, W. & Ferguson, K. E. 2001 The psychology of B. F. Skinner Thousand     Oaks: CA, Sage. 

岡田岳人 2012 心身問題物語 北大路書房.

ピアジェ, J. (中垣啓訳) 2007 ビアジェに学ぶ認知発達の科学 北大路書房. 

リード, E. S. (細田直哉訳) 2000 アフォーダンスの心理学 新曜社. 

リード, E. S. (佐々木監訳) 2006 伝記 ジェームズ・ギブソン 勁草書房.

佐藤方哉 1976 行動理論への招待 大修館書店.

トールマン, E. S. (富田達彦訳) 1977 新行動主義心理学 清水弘文堂.

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